ざ~ちゃんブログ

プログラマーです。 富山県の旧細入村でリモートワークしてます。 プログラミングとPerfumeと動画制作が大好きです。

演劇

演劇の経験から得た一番のもの 〜社会復帰しました〜

半年間の無職期間を経て、ようやく先月下旬に社会復帰しました!今は在宅プログラマーとして、富山・東京間でリモートワークしております。いや〜、毎日コードが書けること、良いコードを書けるプログラマーがリスペクトされる環境であること、最高に楽しいっす!!!どこの会社かはまだナイショです(笑) もう少し落ち着いたら発表しますね〜。

はや一ヶ月近く経ちまして、自分で作ったプロトタイプを早速お客さんにデモする機会もありました。(お客さんともリモート会議です)けっこう「ハキハキしてますね」とか「最初なのにスムーズですね」とか言われることが多くて、そんな時には「元演劇部なので!」と返すのが定番なんですが、高校・大学と7年間やってた演劇の経験から得たものは大きかったなーと改めて思う毎日です。

ブログ見返したら、演劇に関するエントリは前に3本も書いてたんですね。

この機会にまた演劇について語ってみたくなったので、ちょっとブログで語ってみようかと思います。(あくまでもプロでない「元アマチュア役者」の拙い話です)

役者というと「人前で堂々と話せる」みたいなイメージはすぐ湧くと思うんですが、僕が演劇の経験から得た一番のものはそこだとは思ってません。もっと広い意味での「会話力」ではないかと思ってます。

芝居の本質って「セリフを言うこと」なんかじゃなくて「会話」だと思うんですよ。映画・TV・ラジオ・舞台と色々ありますが、普通の芝居は人と人が「会話する」ことで進んでいきます。役者同士が会話をして、その会話を聴いて客が楽しむ。これが小説との大きな違いじゃないかと思ってます。

そして芝居として「リアルな会話」をするのはけっこう難しい。特に舞台演劇って同じシーンを何度も稽古するし、本番の公演も何日も続いたりするので、気づいたら相手のセリフも全部覚えちゃって「お互い次に何をするか全て分かってる」状況になるんですよ。稽古をすればするほど新鮮味が薄れてリアルな会話が難しくなっていく。だからこそ「いかに相手の話をよく聴いて会話をするか」という訓練が芝居では大切だと思うわけです。高校の時も大学の時も、先生には「ちゃんと会話をしなさい!」と口すっぱく言われたものです。

舞台上で「リアルな会話」が交わされている時は、4DX映画なんかより生の舞台の方が何倍も臨場感あって面白いですよね!だって目の前に実際に人がいて会話してるんだもん。そして僕が一番好きな演目はアドリブ芝居「青木さん家の奥さん」なんですけど、全編アドリブなんて正に「会話」そのものです。

セリフを言うのが下手よりは上手い方がいいけど、自分がセリフを上手く言えるだけでは決して良い舞台はできません。役者同士の「会話」によって「舞台上の空気を読みながら客席の空気を作る」ということ。これは人の話を聴く理解力とか、仕事上のスムーズな役割分担とか、上司への根回しとか(笑)、社会生活上でも様々な部分で活きてくる能力だと思います。

一流の指導者にも恵まれて、その「会話力」を学生時代に思う存分訓練できたことが、プログラマーとしての仕事でも色々な場面で役に立っていると思うわけであります。

だからと言って「全員演劇やれよ!」って言ってるわけじゃないですけどね。野球部でも吹奏楽部でも将棋部でも化学部でも、何かしらそれぞれの領域で普遍的なものはありそうです。僕はたまたま演劇をする縁があって、そこから得られるだけのものをMAX得られて幸運だったなぁと、そんな話。ちなみに嫁さんも高校の演劇部の後輩だったりしますw

ではまた〜。

野田秀樹の戯曲「パンドラの鐘」を今更ながら読んだ戦後70年

この前のブログで「戯曲をもっと読みます」と宣言しましたが、さっそく野田秀樹の戯曲集をKindle版で買って、大好きな「パンドラの鐘」読みました。じっくり読んでみると新たな発見があって面白いね。

20世紀最後の戯曲集
野田 秀樹
新潮社
2011-08-26


タマキさんの最後のセリフ

「日本には王がいるわ 。」
「あたし達だけは知ってるじゃない 、ヒメ女とミズヲの物語 。もしアメリカが 、もうひとつの太陽を爆発させようとしたって 、王が守ってくれる 。滅びようとする日のあのヒメ女のように 、ヒメ女が 、この土地を救ったように 、王ならば 、必ずその地が滅びる前に 、きっと 、わが身を埋めるでしょう 。」

これを素直に解釈すると、長崎でパンドラの鐘が爆発したってことは、昭和天皇には古代の心が届かなかったってことになります。高校時代は俺もそう解釈してました。

でも、それから15年経った今改めて読んでみると、マッカーサーに「全ての戦争責任を負う」と伝えた昭和天皇には、ヒメ女の心が届いていたって解釈もできると思いました。というか俺はそう信じたい!

日本の天皇って決して「王」ではないじゃないですか。「君臨すれども統治せず」なので、自分の一声で何でも国が動くわけではない。「我が身を埋める」と天皇が本気で思っても、それだけじゃうまく行かないのが現実の世の中です。

野田さんは単に前者のつもりで書いたのかも知れんけど、そこの解釈は読み手の自由。だから俺の今の解釈は、「古代の心は未来に届いた。パンドラの鐘は爆発してしまったけど、それでも未来の国は滅びなかった。滅びる前の日に、未来の王は未来の国を守ってくれた」って思うことにしました!

さてさて余談ですが、何気にインパクトあったミズヲのセリフ。。。

「人はいつも未来を相手にしか戦争できない 。戦争をはじめた日 、誰もその事に気付かない 。そして人は未来に 、決して勝てない 。」

これ、開発前の見積もりが甘く、始まってみたら納期もコストも全然割りに合わないことにやっと気付いて、あとはデスマーチ赤字プロジェクトになるソフトウェア開発そのものじゃないかー!と思った次第です。。。「赤い風景」ってそういうことだったのかーー(´;ω;`)

やはり、ソフトウェア開発に演劇から得るものは大きいですね(笑)
ではでは~。

「戯曲」はソフトウェア開発における「仕様書」である

最近、ソフトウェア開発と演劇の共通点について色々考えを巡らせてたんですが、そんな矢先にこの記事を読んでかなり面白かったです。
http://synodos.jp/culture/14752

前は何となく「戯曲=ソースコード」と思ってたんだけど、今思うのは、ソースコードは戯曲ではなくて「役者のセリフ」と考えた方がしっくり来るなぁと。そしてプログラマーが役者。なんか、良いプログラマーと良い役者って共通するものがある気がするんです。

そんで戯曲はというと、プログラミングに入る前の「仕様書」に相当する気がしています。

アジャイル開発とかで、仕様書をしっかり書かずに作るのが流行ってますけど、最近それに似た開発を少し試してみて「やっぱ仕様書は大切だな」と思い直したところもありました。特に離れた場所のメンバーにプログラミングを振るときは、それなりの仕様書を作らないとうまく回らないですよね。

かと言って、読んだらそのままソースコードに落とせるような詳細な仕様書まで書くのは意味がないとも思うのです。仕様書を読んだプログラマーが、各自工夫してプログラミングする余地を残しつつ、ベースの部分は読めばしっかり分かるという仕様書が理想だと思うんですが、それって俺が考えてた「良い戯曲」の条件と同じなんですよね。役者の一挙手一投足まで書かれてる戯曲を読むとちょっと嫌になります…そういうのは「戯曲」じゃなくて「上演台本」としか言わんのかもしれんけどね。

さっきの記事に「戯曲を見直そう」と書かれていたのを読んで正にそうだなと思いました。「仕様書を見直そう」と。伝えるべき大切なことはしっかりと書き、かといって必要以上に細かく書きすぎず、そういう素敵な仕様書を書くために、ちょっと色んな戯曲を読んでみようと思いました(笑)

こんなアプローチを取るプログラマーはなかなか世の中に少ないんじゃないだろうかw 高校大学と芝居やってたことが、今になって仕事にプライベートに色々活きてるのを実感しています。

まぁそうは言っても、素敵な仕様書を書くために時間ばっかかけてしまうとビジネスとして成り立たんのでね…コストとクオリティとのジレンマは非常にシビアなところでありますが……(´;ω;`)

アートとエンターテイメントと、富山短編映画祭の思い出と。

動画制作とかの創作活動するときに、俺は「見た人を楽しませる」ってことをすごい意識してて、友達が俺の動画で笑ってる姿とか妄想しながらいつも編集してます。でも周りのアマチュア映像仲間には、自分の世界にどっぷり浸る作風の人も多いんですよね。良いとか悪いとかの話ではなくて、それぞれのスタイルがあって面白いなーという話。

昨日夜な夜なその辺りを考えてたら、言葉にすると「アートとエンターテイメントの違い」なんだと思いついて、すごくしっくり来ました。ググったら同じように考えてる人たくさんいますね。俺が思いついたことはこの人のブログに全部書いてありました(笑) んで俺はかなりエンターテイメント寄りなスタイルだなぁと思います。学生時代にアマチュア演劇やってたときも、「芝居は客を楽しませてなんぼ」というのがモットーでした。

2011年〜2012年に縁あって富山短編映画祭の実行委員をやってましたが、2013年の夏前に半ばケンカ別れで実行委員を抜けちゃいました。やめた直接の原因は違うんですが、今から思い返してみると俺が「見に来たお客さんを楽しませる責任がある」と強く思ってたのと比べて、他の実行委員は割と映画の「作り手」目線が強くて、「エンターテイメント」よりも「アート」寄りな映画祭を思い描くメンバーが多かった気もします。回を重ねるうちにその辺の意識のズレも何となく辛くなって行って、最終的にやめる原因の一つになったのかも知れません。

もちろん「アート」と「エンターテイメント」は完全に区別できるものではなく、さっきのブログに書いてある「アートとエンターテインメントの接点にこそ、もっともすばらしい何かが生まれる」というのが真実だと思います。それでも俺が感じる現実として、アート寄りな人とエンターテイメント寄りな人は似たようなことやってても微妙に噛み合わないことが多くて、同じ方向を向いて何かを成し遂げるのは難しいよなぁーと思うわけなのです。。。

だから何やねんて感じですけど、ここ数年もやもやしてたことが自分の中でまとまってスッキリしたので独り言でした。最初はFacebookに書いてたけど、長くなったのでブログで公開してみました。

その点Perfumeなんかはアートとエンターテイメントのバランスが素晴らしいですよね。もうすぐライブDVD発売なのでぜひどうぞ!