エッセイ
小さい頃、運動が苦手で勉強は得意だった。
しょっちゅうクラスの代表的な役に選ばれて、大体の場で「リーダー的存在」になる事が多かった。
誰とでもうまくやれる性分だったけど、親友って感じの友達は少なく、放課後や休日は、どちらかといえばワイワイみんなで遊ぶよりも、家の中で一人好きなことに没頭する方だった。
言葉にすると「秀才の運動オンチ・学級委員・オタク」というステレオタイプな言葉が当てはまり、何となくそれを自分で認めたくなくて、好きなことも極め切れずに少しブレーキをかけていたような気もする。友達のミーハーな話題に付いて行きたくて必死で流行りのテレビ見たりとか。
特に「勉強ができる」ってのは、最初自分では「俺がちゃんと勉強してるからだ」と思ってたけど、今から振り返ると、不思議なくらい足の速い奴がいたように、自分は人よりも「勉強ができる才能があった」のかな、と素直に認められるようになった。
「勉強できる才能」って、下手に自分で口にするとすげー嫌味に聞こえるのもあって、自分では特に認めづらかったのかも。勇気を出して今日は言ってしまう(笑)
人にはそれぞれ、得意不得意・向き不向きがある。もちろん才能がない分野でも、努力すればある程度までは上がる。でもある程度以上は無理。才能がない分野では一流にはなれない。残酷だけどそれが現実。
去年の秋に前職を辞めて、しばらく無職でひたすら毎日勉強して、でも勉強ばかりの毎日も意外と楽しくて、今こうして最高の環境で働けるようになって、やっと「自分はこれで良かったんだ」と自信がついてきた。
今は、「とにかく得意分野を伸ばし続けよう」と開き直っています。周りから何と言われようと、自分が好きで得意な事はとことん極めて、苦手な事は可能なかぎりスルーできるようにしていきたい。何でも際限なく頑張るよりも、絶対にそっちの方が幸せだと思うから。
最近「肩こり・腰痛」がほとんど無くなりました。在宅ワークなので、机・椅子・キーボードなどは拘って快適なもの揃えましたが、「仕事でスーツを着なくなった」のもかなり大きいんじゃないかと思います。
スーツで仕事してた時はそれが当たり前だったし「スーツを着ると仕事モードのスイッチが入る」とも思ってたけど、先日久しぶりに結婚式でスーツ着たら「こんなん毎日着てられっかー(#゚Д゚)」と思ってしまいました。服で仕事モードを切り替えたいなら、動きやすい自分なりの「仕事着」を決めちゃえばいいんだよね。
とはいえ、プログラマーでも客先に打ち合わせに行くことも多いわけで、「スーツを着ないなんて失礼だ!」と考える取引先が多いなら今はスーツ着るしかないんだろうなぁとも思います。スーツ出社のIT企業を責める記事をよく目にしますが、IT企業だけに変われと言っても無理で、顧客やそのまた顧客を含めた全体的な「文化」が変わらないと難しいのですよね。
服装に限らず、環境が心地よくないと思った時に「今の場所を心地よい環境に変えるべく頑張る」のか「一度飛び出して、他に心地よい場所を求める」のか二通りあると思います。僕は後者を選びました。一般的に後者を選ぶ人がかなり多いんじゃないかな。
心地よくないと思った人が次々と飛び出して、各人なりの心地よい場所を見つけて、だんだんその輪が大きくなって世の中の主流になっていく、と言う流れが歴史上くり返されて来たんじゃないかなーとも思いますね。例によって最初の話題からだいぶ飛躍してしもた。
ビデオデッキとかの家電系はもちろん、ファミコンのカセット新しいの買ったときとかも、まず説明書を隅々まで読み込んでからゲーム始める少年でした(笑)
その性格は今でも根底にあって、何か新しいことを始めようとすると、けっこうな時間かけて「その分野の基礎知識、常識、歴史」などを深く調べがちで、実際に行動するスピードが遅かったりするんですよ。
仕事では損することも多かったんだけど、逆に世の中には「マニュアルなんか全く読む気がしない」ってタイプの人もいるわけで、そういう人はスピード速いけどテキトーだったりするので、自分としてはやっぱり「じっくり丁寧にいい仕事する」ってのを強みにして行きたいなーと今は思ってます。
実は10月に会社を辞めました。2007年から9年在籍して、最初6年は大手に常駐、最後3年が本社勤務でした。
常駐時代は仕事の幅も自分の裁量も狭くて、仕事としては正直「退屈だなー」と思ってました。だから本社に戻った当初は楽しくて仕方なかったんだけど、忙しすぎて自分本来の「じっくり丁寧に」というスタイルでやってる暇が全然なく、次から次へと来る仕事の中でダッシュし続けてた感じがします。かなり濃密な3年間で相当スキルアップできたけど、元来のんびり屋さんの俺がダッシュし続けるのは流石に限界が近づいていたので、心身に支障を来す前に辞めちゃいました!
今振り返ってみると、大手に常駐してた頃の仕事内容の方が、むしろ自分の性格には合っていたような気もします。とことん丁寧に進めるタイプの業務だったし、日々の単調な仕事の中で「いかに自動化してラクできるか」とかいつも考えてたので、意外と「プログラマーっぽい思考」をする機会も多かったですし。
僕は「プログラマー」でありたいと強く思っています。「プログラマー」という言葉の使い方は会社によって千差万別で、「単純作業するだけの工員」を指すことも多いのが残念ですが、良いIT企業なら必ず「プログラマー」をリスペクトしているものです。
もともとプログラミングが大好きでIT業界を目指したのに、気がつけば社会人になってからの9年間、本業ではほとんどコードを書いていませんでした。でも「職業は?」と聞かれたら「プログラマーです」と毎回答えるようにしていました。それは「プログラマーでありたい」という希望も込めて。
というわけで今ワタクシ、無職です!有休消化も含めると9月1日から仕事してません!次に入る会社では「プログラマー」としてとことんバリバリやって行きたいと思っているので、そのレベルの技術をつけるべく1人で勉強してます。
そしてもうしばらく勉強に集中させてもらうため、家族で実家に戻り親世帯と同居することにも決まりました。この先高く跳ぶために、一旦スネかじらせて頂きます!家族に恵まれてることが本当に何よりの幸せです(´;ω;`)
そんな中で最近は色々人生を振り返ることが多く、「取扱説明書」好きで「じっくり丁寧にやりたい」自分の性格を再確認してたのでした。もちろん全てにおいてじっくり進めてたらダメなことは分かってますけどね。でも「じっくりやりたい性分だ」という事実は、欠点というよりは強みとして、今後の色々な場面で大切にしていきたいと思ってます。
えらい長々と書いてしまいました。年末ですねぇ。読んでくださった皆さん、ありがとうございましたm(_ _)m
一方で、最近は小中学生もスマホを使ってLINEでコミュニケーションするのが当たり前になって、LINEでのいじめは大人が気付きにくくて深刻化しやすいとかも言われてます。
子供ってある意味で超残酷な生き物で、いたずら、ケンカ、いじめなどなど酷いことを平気でやらかしますよね。でも傷ついたり叱られたり反省したりを繰り返して、少しずつ分別がつく大人になっていくもんだと思うんですよね。
んで思ったのが、現代の大人が子供だった頃はネットなんてなかったか、あっても現実世界とは全く別の閉じた世界だったわけです。だからリアルとネットがここまで密接に繋がってる世の中での経験が浅いために、ネットの向こう側にリアルな人間がいることを実感し切れない大人が多いのかなーと。
その点今の若い子たちは、思春期には既にネットとリアルの境目がない生活をしてるわけですよね。LINEいじめは辛いけど、子供時代に散々ネット上で揉まれた世代が大人になれば、みんながリアルと同じようにネット上でもお互いを思いやれるような、一歩成熟したネット社会が来るような気もします。
「じいちゃん、ネット上では匿名だから大丈夫とか古いよー。気ぃつけられ〜」みたいに将来自分の孫に叱られたりして。。。てゆーか、僕の孫世代にもなると「インターネット」とは全く別の概念で通信してるかもですね。テレパシーとか暗黒物質でチャンネリング的な。。。
どーしても最後は飛躍した未来予想になってしまいます(`・∀・´)
印象深かった話を箇条書きでまとめると、こんな感じ。
・「ロボットっぽいロボット」を作るエンジニアには、人間が嫌いor苦手な人が多い。
・自分は逆で人間に対する興味が深く、人間を深く知るために人そっくりなアンドロイドを研究している。
・子供の頃「ほかの人の気持ちを考えなさい」と大人に言われた時、「人」「気持ち」「考える」とはそもそも何なのかと疑問だった。大人は「人」「気持ち」「考える」とは何かを完璧に分かって子供に指導してるんだと超尊敬したが、高校くらいで「大人は何も分かってないくせに分かったふりをしている」と気付いた。
・マツコロイドを気持ち悪いという人が多いが、炊飯ジャーみたいな家電が「あと5分です」とか喋ってくる家の中だって気持ち悪いし、電車に乗っている全員が小さな板に指をこすり付けている(スマホ操作)状況なんか宗教儀式にしか見えない。それに比べたら人そっくりなアンドロイドと会話する方がよっぽど人間として自然な生活。
・人間とコミュニケーションできて人間そっくりな仕草をするアンドロイドを作るためには、ロボット工学・脳科学・心理学・認知工学・哲学などあらゆるジャンルの知識が必要で、アンドロイドの研究結果から各分野に知識をフィードバックもできる。その繰り返しで研究のサイクルが回る。
・マツコロイドは今では色んなTV番組に引っ張りだこ。出演料は、本物のマツコ・デラックスのギャラと同額!
他にも、平田オリザ氏のアンドロイド演劇「さようなら」の話や、抱き枕型通信メディア「ハグビー」によるコミュニケーションの話など、演劇部出身プログラマーの俺的には相当楽しい話が満載でした。なんかアンドロイド作りたくなってしまう(笑)
一番印象に残ったのは、最後の質疑応答の時間。「人工知能が人間の知能を超えて、ロボットが人を滅ぼすのではないかと危惧する科学者も出てきましたが、その点はどうお考えですか?」って質問に対する石黒先生の回答でした。
・ホーキングが言ってた奴ですよね?(大御所物理学者を割とバカにした感じw)
・まず人工知能が人間の知能を完全に超える時代は、早くて300年後、遅くて1000年後くらいになるので、我々が生きている間には絶対そこまで行かないから安心してください。
・いずれはそんな時代が来ます。でも勘違いしちゃいけないのは、「体のパーツは機械だけど、心は人間と同じ」というロボットは恐ろしいものではない。義足を付けた人のことを「人間らしくない」とは思わないように、将来は心を持ったロボットが普通に「人間」として生活するようになるでしょう。人工知能が人類を攻撃して滅ぼすというのは、ハリウッド映画の見過ぎです(笑)
確かに考えてみると、人類が「人類を滅ぼせ!」とロボットにプログラムするわけがないですよね。ロボットが今後意思を持つとすれば、石黒先生がやっているような「人間と楽しく生活するロボット」として進化していくのが自然でしょう。ターミネーターの世界では人工知能が人類に戦争を仕掛けますが、戦争を仕掛けるには「人類に恨みがある」「人類が滅亡した方がメリットがある」など理由が必要です。人類とロボットが仲良く共存するために進化して人類の知能を超えたとすれば、人工知能は人類を攻撃するどころか、人類より優しい心を持つんじゃないかとすら思えてきました。少なくとも今日の講演を聞いて、「人工知能が意思を持つ」=「軍事兵器が意思を持って人を襲う」などという考えは全く間違いなんだと分かって安心しました。
うろ覚えですが、最後の方に石黒先生が「人間の心を持っていれば、身体が何でできていても人間と呼べるのではないか。仮に今のような身体を持つ人類がいなくなっても、人間の心を持った機械が存在し続ければ、それは人類が滅びたことにはならない」というような意味のことを言われて、今後の人類の未来について色々と考えさせられました。
「人工知能が発展していく中で人間はどうしたら生き残れるか?」のような問いが最近よく議論されます。人類が攻撃されるって意味じゃなく、人類の仕事が奪われ、存在意義がなくなるって意味で。今後しばらく「人間にしかできないこと」は無くならないですが、遠い未来、完全に人工知能の方が優れた存在になったとして、果たして人類が存続するにはどうしたらいいのか?僕も色々考えたことはありましたが、今日の石黒先生の講演を聞いて、「ロボットを人類の正当な子孫として、全人類が完全にロボットに置き換わる世界になっても全然良いんじゃないか」と思ってしまいました。
それはなぜか。魂とか輪廻とかの話は置いておくと、人類として先祖から受け継がれてきたものって、生物的なDNAより「技術」や「心」の方が大きいと思うんですよね。「遺伝で生まれつき○○だ」みたいな特徴は誰しもありますが、生きていくための大抵のことは、肉体ではなくて技術と心が解決してくれます。その技術や心は、世代から世代へ、会話・書物・絵・データなど様々な形で受け継がれるものです。
人間は必ず死にます。でも死ぬ時までに次の世代に色々なことを伝え、これからも自分の子孫が繁栄していくと心から思えていれば、人は幸せに死んでいけるでしょう。自分の血が伝わるのも嬉しいでしょうけど、たとえ血縁関係にない相手でも自分の技術・心が次の世代に伝わるのが一番嬉しいんじゃないかと思うのです。ということは、過去の人類が築いた技術と心を、感情を持ったロボットにしっかりと継承して、そのロボットがさらに次の世代につなげて行ってくれるのならば、それは正当な「人類の子孫」と呼べると思うわけです!
この地球に最初の生命が誕生してから、自然淘汰を繰り返しつつ長〜い時間をかけてDNAが変化し、人類が生まれました。人類のDNAが生物として進化する余地もあるでしょうが、そんなのとは比べものにならないスピードで人類の技術は進化してきました。その先には、生物的な繁殖能力を使わずとも、人類の技術で「人類そのもの」を進化させる時代が来て、決してそれは不幸なことではないと今日の講演を聞いて思っちゃいました。カルチャーショックだったなぁ〜。
なんか先進国の少子化問題や、子供ができない同性婚を認める世界的な流れ、そして最近よく話題の「性的欲求が無い若者」みたいなのも、上に書いたような未来を暗示しているように思えてならないのでありますw 「そんな未来は到底受け入れられない」と思う方も多いと思いますが、僕としては自分の「子孫」であるロボットたちが幸せに暮らす未来の地球(と宇宙の星々)を、ワクワクしながら妄想している平日の夜更けなのでありました。
タマキさんの最後のセリフ
「日本には王がいるわ 。」
「あたし達だけは知ってるじゃない 、ヒメ女とミズヲの物語 。もしアメリカが 、もうひとつの太陽を爆発させようとしたって 、王が守ってくれる 。滅びようとする日のあのヒメ女のように 、ヒメ女が 、この土地を救ったように 、王ならば 、必ずその地が滅びる前に 、きっと 、わが身を埋めるでしょう 。」
これを素直に解釈すると、長崎でパンドラの鐘が爆発したってことは、昭和天皇には古代の心が届かなかったってことになります。高校時代は俺もそう解釈してました。
でも、それから15年経った今改めて読んでみると、マッカーサーに「全ての戦争責任を負う」と伝えた昭和天皇には、ヒメ女の心が届いていたって解釈もできると思いました。というか俺はそう信じたい!
日本の天皇って決して「王」ではないじゃないですか。「君臨すれども統治せず」なので、自分の一声で何でも国が動くわけではない。「我が身を埋める」と天皇が本気で思っても、それだけじゃうまく行かないのが現実の世の中です。
野田さんは単に前者のつもりで書いたのかも知れんけど、そこの解釈は読み手の自由。だから俺の今の解釈は、「古代の心は未来に届いた。パンドラの鐘は爆発してしまったけど、それでも未来の国は滅びなかった。滅びる前の日に、未来の王は未来の国を守ってくれた」って思うことにしました!
さてさて余談ですが、何気にインパクトあったミズヲのセリフ。。。
「人はいつも未来を相手にしか戦争できない 。戦争をはじめた日 、誰もその事に気付かない 。そして人は未来に 、決して勝てない 。」
これ、開発前の見積もりが甘く、始まってみたら納期もコストも全然割りに合わないことにやっと気付いて、あとはデスマーチ赤字プロジェクトになるソフトウェア開発そのものじゃないかー!と思った次第です。。。「赤い風景」ってそういうことだったのかーー(´;ω;`)
やはり、ソフトウェア開発に演劇から得るものは大きいですね(笑)
ではでは~。
http://synodos.jp/culture/14752
前は何となく「戯曲=ソースコード」と思ってたんだけど、今思うのは、ソースコードは戯曲ではなくて「役者のセリフ」と考えた方がしっくり来るなぁと。そしてプログラマーが役者。なんか、良いプログラマーと良い役者って共通するものがある気がするんです。
そんで戯曲はというと、プログラミングに入る前の「仕様書」に相当する気がしています。
アジャイル開発とかで、仕様書をしっかり書かずに作るのが流行ってますけど、最近それに似た開発を少し試してみて「やっぱ仕様書は大切だな」と思い直したところもありました。特に離れた場所のメンバーにプログラミングを振るときは、それなりの仕様書を作らないとうまく回らないですよね。
かと言って、読んだらそのままソースコードに落とせるような詳細な仕様書まで書くのは意味がないとも思うのです。仕様書を読んだプログラマーが、各自工夫してプログラミングする余地を残しつつ、ベースの部分は読めばしっかり分かるという仕様書が理想だと思うんですが、それって俺が考えてた「良い戯曲」の条件と同じなんですよね。役者の一挙手一投足まで書かれてる戯曲を読むとちょっと嫌になります…そういうのは「戯曲」じゃなくて「上演台本」としか言わんのかもしれんけどね。
さっきの記事に「戯曲を見直そう」と書かれていたのを読んで正にそうだなと思いました。「仕様書を見直そう」と。伝えるべき大切なことはしっかりと書き、かといって必要以上に細かく書きすぎず、そういう素敵な仕様書を書くために、ちょっと色んな戯曲を読んでみようと思いました(笑)
こんなアプローチを取るプログラマーはなかなか世の中に少ないんじゃないだろうかw 高校大学と芝居やってたことが、今になって仕事にプライベートに色々活きてるのを実感しています。
まぁそうは言っても、素敵な仕様書を書くために時間ばっかかけてしまうとビジネスとして成り立たんのでね…コストとクオリティとのジレンマは非常にシビアなところでありますが……(´;ω;`)
そういえば、今までは「ビール飲みながら米と味噌汁」が普通に行けたんですけど、先週くらいから「酒飲みながら米は合わんな…」と思うようになりました。結婚し、父親になり、25歳になって、やっと「一人前の酒飲み」になれたのかな?(笑)
ハード・ソフト共に堅牢な状態で1年ずつ年齢をインクリメントし、この調子で64歳まで幸せに生きていたいですね。その頃にはどんな世の中になっているのでしょう?平均寿命が128歳、最高齢者が256歳とかになっているでしょうか?( ̄▽ ̄)
テクノロジーは必ず人類を幸せにしてくれると信じて、技術者として夫として父親として、道を踏み外すことなく頑張っていきたいと思います!
なんか切りの良い数字で嬉しかったので、珍しく抱負のように語ってしまいました。Facebookに同じのを投稿しましたけど、割と気に入った文が書けたのでこっちにも転載しました。そんなわけで皆さま、これからもどうぞよろしくお願いしまーす!
昨日夜な夜なその辺りを考えてたら、言葉にすると「アートとエンターテイメントの違い」なんだと思いついて、すごくしっくり来ました。ググったら同じように考えてる人たくさんいますね。俺が思いついたことはこの人のブログに全部書いてありました(笑) んで俺はかなりエンターテイメント寄りなスタイルだなぁと思います。学生時代にアマチュア演劇やってたときも、「芝居は客を楽しませてなんぼ」というのがモットーでした。
2011年〜2012年に縁あって富山短編映画祭の実行委員をやってましたが、2013年の夏前に半ばケンカ別れで実行委員を抜けちゃいました。やめた直接の原因は違うんですが、今から思い返してみると俺が「見に来たお客さんを楽しませる責任がある」と強く思ってたのと比べて、他の実行委員は割と映画の「作り手」目線が強くて、「エンターテイメント」よりも「アート」寄りな映画祭を思い描くメンバーが多かった気もします。回を重ねるうちにその辺の意識のズレも何となく辛くなって行って、最終的にやめる原因の一つになったのかも知れません。
もちろん「アート」と「エンターテイメント」は完全に区別できるものではなく、さっきのブログに書いてある「アートとエンターテインメントの接点にこそ、もっともすばらしい何かが生まれる」というのが真実だと思います。それでも俺が感じる現実として、アート寄りな人とエンターテイメント寄りな人は似たようなことやってても微妙に噛み合わないことが多くて、同じ方向を向いて何かを成し遂げるのは難しいよなぁーと思うわけなのです。。。
だから何やねんて感じですけど、ここ数年もやもやしてたことが自分の中でまとまってスッキリしたので独り言でした。最初はFacebookに書いてたけど、長くなったのでブログで公開してみました。
その点Perfumeなんかはアートとエンターテイメントのバランスが素晴らしいですよね。もうすぐライブDVD発売なのでぜひどうぞ!
カッターを買ったー。高かったー。
カッターの刃を出したー。(カタカタカタ…)固かったー。
カッターを使ったー。手を切ったー。
痛かったー。
デンデケデケデケデケデケ♪
あ痛カッター あ痛カッター
あ痛カッター Yes!
あ痛カッター あ痛カッター
あ痛カッター Yes!
Give me tissue!
カッターのことは嫌いになっても、AKBのことは嫌いにならないでください!(´;ω;`)
お世話になっております。
運転手のThe Redでございます。
このたび、私の不注意が原因で、貴車のオイルを交換しない状態で7000キロメートルの距離を走行し続ける事態が発生してしまいました。まことに申し訳ありません。心よりお詫び申し上げます。
貴車には、平成15年に購入して以降、お陰様でほぼ一日も休まず乗車させていただいております。今年の車検を終えまして、お付き合いは10年目に入りました。今まで私をあらゆる地域へお送りいただき、大変感謝しております。
スズキの整備士H氏より、貴車の近年の状況については細かく伺っておりました。エンジンオイルが漏れ出しており、何もしない状態でも徐々にオイルが抜けて行く状態にあるとのこと、私も十分認識しておりました。H氏からは、オイルの汚れだけではなく、量が減る対策としても、3000キロメートル毎の交換を厳守するように伝えられておりました。
しかし車検前の4月にオイル交換して以降すっかりと失念しており、交換を怠っておりました。昨日スズキから届いた愛車無料点検の案内で未交換が明るみに出て、前回の交換から約半年後の本日、ようやく交換する運びとなりました。重ね重ね、深くお詫び申し上げます。
再発防止策といたしまして、空き領域のままとなっておりました2番目のトリップメーターを活用することに決定いたしました。オイル交換直後にメーターをリセットし、通常はそのメーターを表に出した状態で走行いたします。そうすることにより、前回のオイル交換以降の走行距離を常に目視しながら運転することが可能になるため、オイル交換時期をはっきりと意識できると考えております。
貴車とは、2014年の車検まで、今後も深いお付き合いを続けさせていただく所存でございます。今回の不手際を糧に、今後は貴車のメンテナンスに今までより一層気を配りながら運転に邁進してまいります。至らない点は多々ございますが、今後も安全にご走行いただけますと幸いです。
以上、よろしくお願いいたします。
当時うちの高校は、アメリカの『テスピアンフェスティバル(全部高校演劇祭)』という非常に大きな大会に、3年おきに出場してました。富山の高校生が渡米して芝居するんですよ!なんでも創部初期にたまたま招待されて、その時の芝居が大好評だったから「毎年来て!」って言われて永久出場資格をいただいたそうなのです。毎年は経済的にも大変だから在学中に1回行けるように、3年おきになってたんですけどね。俺がアメリカ公演に参加したのは2年生の時でした。(ちなみに今は出場資格を返上し、アメリカ公演には行ってないみたいです。)
日本の高校演劇というと、『高校演劇』という演劇のジャンルがあるかのごとく、良くも悪くも「あ〜、高校生だな〜」って感じの芝居をする学校が多くて、実際に大会での審査も『高校生らしい』芝居が評価される部分が大きかったです。そんな世界しか知らずにアメリカの高校演劇を観て、度肝を抜かれました。プロ並みです。演技もダンスもセットや照明もめちゃくちゃレベル高くて、『高校生らしい』とは思いませんでした。ブロードウェイとかを本気で目指してる人たちが集まる全国大会だから、『高校の部活』としてやってた当時の俺らなんかとは、そもそも意識が違うんですよね〜。
で、別に「日本の高校演劇も、アメリカのテスピアンみたいにプロと同じようなことやれ!高校生らしさなんか求めるな!」って言いたいわけじゃありません。少なくとも俺はプロの役者になる気なんてなかったし、あくまで『部活』でしたから。高校生が作る芝居に高校生らしさを求めること自体は、全然悪くないと思います。俺が問題だと思うのは、『高校生らしさ』を高校生が狙って出そうとしてないか?ということなのです。
演劇だけじゃなくて放送でも、高校生らしさは求められました。NHK杯放送コンテストのテーマが『われら高校生』だったりして、『高校生の視点で作った番組が見たい』みたいに募集要項に書いてあった気がします。そんなことを言われると高校生自身としても「よし、高校生らしいものを作ろう!」って思いますよね。で真剣に高校生同士で「高校生らしい作品とは何か、どうやったら高校生らしさを出せるか」なんて話し合ったりして、結局よくわかんないなーって行き詰まったりしてました。俺は放送部と演劇部しか知りませんが、他の高校文化部も似たようなことが多いんじゃないかと想像してます。
俺の代は放送でも演劇でも、大会でそれなりのいい結果を出してきたと思います。講評でも「高校生らしくて良かった」と言われることが多かったのですが、振り返ってみると、作品を本格的に作り始めてからは「高校生らしさを出そう!」なんて全然考えてなくて、単純に自分たちのやりたいことを、思いっきり楽しんでやっていた気がします。一番最初は「高校生らしさって何だ〜…?」とか悩むんですが行き詰まって、そのうちそんなこと忘れて夢中で作品を作り始めて、完成してみたらとても高校生らしかった、って感じです。
中には『高校生らしさ』を狙って出せるツワモノ高校生もいるでしょう。でも、ほとんどの人はそんなもの狙って出せないと思います。『らしさ』ってのは演出するものじゃなくて、にじみ出るものだと思います。だからね、やりたいことをやりたいようにやればいいと思うんですよ。「こんなことしたら高校生らしくないんじゃないか」とか思っても、突っ走ればいいと思うんですよ!所詮高校生なんですよ。普通の高校生達が集まって、自分たちのやりたいことやったら、嫌でも『高校生らしく』なります。だから見方を変えると『高校生らしい』って、『高校生がのびのびとやりたいことやっている』ってことなのかも知れません。
世の高校文化部員に告ぐ!
『高校生らしさ』なんか狙って出そうとするな!
ただのびのびと、やりたいことを、やりたいようにやれ!
『高校生らしさ』なんて後から嫌でも付いてくる!!!!!
ミスチルの『名もなき詩』にこんなフレーズがあったのを、このブログ書きながら思い出しました。
知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中で
もがいてるなら誰だってそう
僕だってそうなんだ
不特定多数が観る芸術作品は、人によって千差万別の受け止めかたがあって当然だからね。極端な話、作者がどう思って作ったかなんか客は知ったこっちゃなくて、観て何を感じるかがすべて。
俺的には、自分の動画観た人に「作者は何を言いたいんだろう?」って深読みさせたくはないです。観たまま素直に楽しめる映像を作ってきたつもりだし、これからも作って行きたいと思っとります。
今年は映画撮るぞー!(`・ω・´)
YouTubeチャンネル
http://www.youtube.com/user/thered315
ニコ動ユーザーページ
http://www.nicovideo.jp/user/2210240/video
IT技術にしても、技術があるだけではダメで、それをたくさん売れるようにビジネスにすることで、結果的にいい技術が浸透して、世の中が便利に変わっていく。Appleも、技術者のウォズと商売人のジョブズが手を組んではじめて成立した。
日本では金をたくさん稼いだ人が何となく悪者扱いされるところがある。ホリエモンなんかその究極。そんな世の名が変わるのはなかなか難しいだろうけど、そんな中でも俺は「金を稼げる人」になりたい。今現在は全然稼げていない。それは自分が今現在あまり必要とされていないんだと謙虚に受け止めて、少なくともたくさん稼いでる人を妬むことだけはしたくないと思う。
稼ぎたい人は思う存分稼げばいい。その時、稼いでない人を見下してはいけない。金にならないけど好きなことを気ままにやる人がいてもいい。その時、稼いでいる人を妬んではいけない。「金を稼げない=価値が全くない」とまで言うつもりはない。価値があっても時代に合わないことだってある。でも、多くの場合「金を稼げる=価値がある」ということは事実。金をたくさん稼いでいる人を素直に讃えられる文化が、日本にもっと根付いてもいいのではないか。そんなことを最近よく考える。
その人は「○○であり、かつ●●である一人の人間」なんだから、「○○」であることを差し置いて「●●」としてだけで発言するのはどうかと思いますね。「○○としてではなく」って言われると、じゃあお前は何なのよ?って思ってしまいますね~。