今日は地元の春祭りでした。獅子舞の笛を吹きました。心配だった天気も思ったほど悪くなく、良い祭りで楽しかった〜。
引っ越し後の生活がまだまだ落ち着かず、公民館の練習にはほとんど参加できず迷惑かけました。。。踊り子の練習はWeb会議での「リモート練習」に挑戦してみたり、出来る限り工夫して頑張ったけど、やっぱ準備に関わる時間は短すぎたなーと反省。来年はもっとしっかり練習参加します!
祭りの最中に何となく考えてたのが、「伝統」というものの価値について。僕の今までの持論として、祭りに限らず「ただ昔から続いてるから」ってだけの理由なら、伝統を続ける意味は無いと思っていたんです。何かしら「やる意味」があっての伝統だろうと。
獅子舞のことを考えてみると、発祥の地だったり、獅子舞が表現するものの意味だったり、その昔に始まった当初は「何のためにやるか」ってのはハッキリしていた気がするんですよ。でも2018年現在、そういう「本来の獅子舞の意味」みたいものは、やってる本人達もあまり意識しなくなっている気がするのです。
少し前までは「それは良くないなー」と思って、もっと原点に立ち返って「この獅子はこういう意味があるから、こういうスタンスで舞わす」みたいのを考え直す必要があるんじゃないか?と実は思ってました。
でも最近の色んな心境の変化と今日の祭りを経て思ったのは、「最初にどんな理由で始まったかよりも、今どんな想いでやってるかの方が大事」なんじゃないかということ。そして今やってる僕の想いとしては「ただ楽しい」ってことと、「代々受け継がれて来た伝統を残したい」ってことの2点が強いかな。
「代々受け継がれて来た伝統」って言っても、ぶっちゃけ全国的に見れば大したもんではないんですよ。数ある田舎の祭りの一つなのです。でも、やってる本人としては「これが俺たちの祭りだ!」って誇りを持ってるし、その伝統の獅子舞が大好きなのです。
仮に「どこがどう好きなんですか?」と聞かれても、おそらく論理的には説明できない。子供の頃から刷り込まれてるから、むしろ「なんで好きな理由を考えなくてはいけないの?」って質問を質問で返したくなりますよね。ジョジョの吉良吉影に叱られますね。
ということで長くなっちゃったけど、「伝統」の価値って合理的に説明できるとは限らなくて、「それが伝統であることそのものが価値」って考えた方がいいのかも知れない。
「代々受け継がれてて、自分も昔から携わってきて、とにかく何となく好き。今後も続いてほしい」って、それだけで十分な価値じゃないだろうか。こんな時代だからこそ、そういう非合理的な感情論をもっと尊重して良いのではないか。
やりたくない人間に押し付けることだけはダメだと思うけど、でも「地域の伝統を残したい」って想いの人間が一定数残っている限りは、それ以上「伝統の意味」「伝統を残す価値」なんて考えずに、ただ「伝統を残すためにどうしていくか?」だけをひたむきに考えていけば、それでいいのだと思う。
そんなことを思いながら笛吹いて酒飲んでた1日でした。来年はもっと本気出すぞ!!!