高校時代、『放送演劇部』という部活に入っていました。別に『放送演劇』なる特別な活動があるわけではなく、普通の放送部の活動と普通の演劇部の活動を、完全に合体させた部活でした。大会の時期がずれてるので、頑張れば両方できちゃうんですよ。めちゃくちゃ忙しかったけどねー。放送の大会ではテレビドラマとかラジオドラマとかを作ったりもするんですけど、演技が出来る放送部員て世の中に少ないから、そこら辺はとても有利でしたね〜。

当時うちの高校は、アメリカの『テスピアンフェスティバル(全部高校演劇祭)』という非常に大きな大会に、3年おきに出場してました。富山の高校生が渡米して芝居するんですよ!なんでも創部初期にたまたま招待されて、その時の芝居が大好評だったから「毎年来て!」って言われて永久出場資格をいただいたそうなのです。毎年は経済的にも大変だから在学中に1回行けるように、3年おきになってたんですけどね。俺がアメリカ公演に参加したのは2年生の時でした。(ちなみに今は出場資格を返上し、アメリカ公演には行ってないみたいです。)

日本の高校演劇というと、『高校演劇』という演劇のジャンルがあるかのごとく、良くも悪くも「あ〜、高校生だな〜」って感じの芝居をする学校が多くて、実際に大会での審査も『高校生らしい』芝居が評価される部分が大きかったです。そんな世界しか知らずにアメリカの高校演劇を観て、度肝を抜かれました。プロ並みです。演技もダンスもセットや照明もめちゃくちゃレベル高くて、『高校生らしい』とは思いませんでした。ブロードウェイとかを本気で目指してる人たちが集まる全国大会だから、『高校の部活』としてやってた当時の俺らなんかとは、そもそも意識が違うんですよね〜。

で、別に「日本の高校演劇も、アメリカのテスピアンみたいにプロと同じようなことやれ!高校生らしさなんか求めるな!」って言いたいわけじゃありません。少なくとも俺はプロの役者になる気なんてなかったし、あくまで『部活』でしたから。高校生が作る芝居に高校生らしさを求めること自体は、全然悪くないと思います。俺が問題だと思うのは、『高校生らしさ』を高校生が狙って出そうとしてないか?ということなのです。

演劇だけじゃなくて放送でも、高校生らしさは求められました。NHK杯放送コンテストのテーマが『われら高校生』だったりして、『高校生の視点で作った番組が見たい』みたいに募集要項に書いてあった気がします。そんなことを言われると高校生自身としても「よし、高校生らしいものを作ろう!」って思いますよね。で真剣に高校生同士で「高校生らしい作品とは何か、どうやったら高校生らしさを出せるか」なんて話し合ったりして、結局よくわかんないなーって行き詰まったりしてました。俺は放送部と演劇部しか知りませんが、他の高校文化部も似たようなことが多いんじゃないかと想像してます。

俺の代は放送でも演劇でも、大会でそれなりのいい結果を出してきたと思います。講評でも「高校生らしくて良かった」と言われることが多かったのですが、振り返ってみると、作品を本格的に作り始めてからは「高校生らしさを出そう!」なんて全然考えてなくて、単純に自分たちのやりたいことを、思いっきり楽しんでやっていた気がします。一番最初は「高校生らしさって何だ〜…?」とか悩むんですが行き詰まって、そのうちそんなこと忘れて夢中で作品を作り始めて、完成してみたらとても高校生らしかった、って感じです。

中には『高校生らしさ』を狙って出せるツワモノ高校生もいるでしょう。でも、ほとんどの人はそんなもの狙って出せないと思います。『らしさ』ってのは演出するものじゃなくて、にじみ出るものだと思います。だからね、やりたいことをやりたいようにやればいいと思うんですよ。「こんなことしたら高校生らしくないんじゃないか」とか思っても、突っ走ればいいと思うんですよ!所詮高校生なんですよ。普通の高校生達が集まって、自分たちのやりたいことやったら、嫌でも『高校生らしく』なります。だから見方を変えると『高校生らしい』って、『高校生がのびのびとやりたいことやっている』ってことなのかも知れません。

世の高校文化部員に告ぐ!
『高校生らしさ』なんか狙って出そうとするな!
ただのびのびと、やりたいことを、やりたいようにやれ!
『高校生らしさ』なんて後から嫌でも付いてくる!!!!!


ミスチルの『名もなき詩』にこんなフレーズがあったのを、このブログ書きながら思い出しました。

知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中で
もがいてるなら誰だってそう
僕だってそうなんだ